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フラメンコに出会うまで
幼少からの夢は、 「歌手」
バンドヴォーカルで、カバーや
オリジナル曲も作詞、作曲していました。
30代になってから、ピアノを一年習ったものの、
基本的に譜面は読めない。
少しだけかじった
ギターローコードをかき鳴らし浮かんでくる
メロディを録音していました。
それでも、
日本のミュージックシーンで
デビューしたい。
高知の知人から、
都内のとあるプロダクションの方を
紹介していただき、聴いてもらいました。
そして、お手紙をもらいました。
とても丁寧な文面で、
「あくまでも僕の意見です。
諦めるか続けるかはあなたが決めることです。
その歌唱力で、20歳なら、上京を勧めます。
歌は趣味にされた方が
幸せではないでしょうか?」
私、30歳。この時、
歌手になる夢は半分以上諦めていました。
しかし、趣味でいいから、どこかで歌いたい。
いくつか歌わせてもらえるところを探していた時、
フラメンコに出会いました。
某舞踊家の方にステージで
歌う機会をいただき、
フラメンコギタリストであり
カンタオールである、
上林功氏に師事。
フラメンコのパロ(曲種)を
覚えていきました。
そして
スペイングラナダへ渡西
カンテを学ぶために。
帰国後、
踊り伴唱の仕事など少しずついただきながら、
プロへの道を歩み始めていました。
しかし、
需要の少ない高知で、スペイン語で歌う歌。
何かへ挑戦しなくては、知ってもらえない。
日本フラメンコ協会主催
新人公演にチャレンジ。(新人公演関連記事はこちら)
出産を経て、3度目で奨励賞をいただきました。
これは、高知という郊外で、
特殊な歌を歌っている私にとって、
「嘘は歌っていない」
という証となり、大きな力となりました。
しかし、
受賞者とはいえ、
即座に仕事が増えるということは
ありませんでした。
フラメンコ舞踊家の数は、プロ、愛好家含め、
スペインに継いで
世界二位という日本。
フラメンコの「踊り」を教える目的と、
フラメンコの三位一体と呼ばれる、
ギター、カンテ、バイレ、三つ揃った
総合スタジオを目指し、スタジオ運営に携わり、
フラメンコスタジオ
エストゥディオ・ルシアで数年、
舞踊、初級講師も経験。
カンテをもっと奥深く知り
貫いていきたい。
現在師事しているダビ・ラゴスに
小島章司先生のご紹介で、
出会い師事し始めます。
彼の的確なアドバイスと
インターネットの普及で
スペインと高知でのレッスンが実現。
そしてこれから、しっかりスペインの
コンクール目指して・・・
立ち上がった時、父の癌が発覚。
余命半年と宣告されました。
数年前から軽い認知症を
発症した母を父と二人で
介護していたことも育児も、
家族の支えであった父。
仕事を制限し、自宅で看取った
(アメブロより、父が残したメッセージ)
その後、離婚を経て
父と介護を10数年続けていた母、
息子、3人で頑張っていこう!
この高知で施設の方にも助けていただきながら
暮らし、カンテを続けることを決意し、
CD制作を、ダビとともに、計画し始めた矢先、
母が86歳の生涯を閉じました。
2018 冬 (アメブロより、
母のこと皆さんありがとうございます。)
CD制作への思い
「一生歌い続けたい!」と思わせてくれた
フラメンコに出会った。
自分が生きた証として、歌声を残したい
たくさんのメッセージを込めて。
「アカリ・シアンド・エル・カンテ」
(現在販売は、ダウンロードのみとなっております。詳しくはこちら)
枕元のラジカセ。
入所先の老健で、母が大好きだった
トロイメライをかけながら
「CD作るきね。できたらここでかけるきね。」
CD制作のきっかけとなった。
間に合わなかったけど、
天国で聴いてくれてると思います。
父からの遺言
生前フラメンコ歌い手としての私を
全力で応援してくれた父。
浪曲師になりたかった父。
私が本物の歌い手になることを
最後まで望んでくれました。
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